株式会社 内外出版社のプレスリリース
今年9月14日で生誕84年を迎える赤塚不二夫の伝記『赤塚不二夫伝 天才バカボンと三人の母』の電子版が9月13日に内外出版社より発売された。
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著者は、赤塚の晩年に寄り添い「最期の赤塚番」といわれる山口孝氏(元スポーツニッポン編集記者でジャーナリスト)。赤塚不二夫という天才を生み育てた実母・りよ、最初の妻・登茂子、再婚した妻・真知子という、「3人の母」を軸に、赤塚不二夫の生涯を描いた感動作だ。「3人の母」たちの愛と、その絶対的な愛の中で才能を開花させ、自由奔放に昭和・平成を駆け抜けた赤塚の人生が明らかになる。
もうひとつ、この作品の読みどころのひとつに挙げられるのは、赤塚が生涯を通じて切磋琢磨しあった、日本の漫画界、エンターテインメント界のレジェンドたちと赤塚不二夫の物語だ。そのいくつかを紹介しよう。
赤塚が”神様”と慕った手塚治虫との出会い
赤塚が漫画家になると決心したきっかけになったのは、小学生の時に読んだ手塚治虫の『前世紀ロストワールド』だ。その手塚治虫に初めて会ったのは、赤塚がデビューする前、二十歳になる直前の夏だった。
石ノ森章太郎と長谷邦夫と3人で手塚治虫の仕事を訪ねた。
「心臓が止まるくらい、どきどきした」と赤塚。近所の食堂から出前を取るから、何でも好きなものを選びなさいと言われ、石ノ森と長谷は「カツ丼」と即答したが、赤塚は、腹ペコだったにもかかわらず「おなかいっぱいです」。緊張のあまり思わずそう答えてしまったという。
この時に一番印象に残った手塚治虫の言葉は「君たち、一人前になりたかったら、一流の本、小説を読みなさい、一流の音楽を聴きなさい、一流の映画、芝居を観なさい」。
ただ、一流とは何かがわからなかった。レコード屋で店員に「一流の音楽ってなんですか?」と聞いた。「クラシックじゃないですか」と言われるままに、それがジャンルとも知らずに「じゃあ、それください」と。それ以来、食べるのにも困るような貧しさだったが、神様・手塚の教えに従い、一流を求めて映画、本、コンサートなどには惜しまず金を使った。
映画は「(漫画が)売れなかった時代、年間300本見たときもあった。朝から晩まで映画館にいたこともある。五十五円、早朝割引で入って夜終わるまでいた」と言う。映画の筋はもちろん、場面や背景、風景、セリフの言い回しまですべて覚えたほどだった。食べるものはと言えば、キャベツの油炒め、油がなければ生のまま醤油をかけて食べた。魚肉ソーセージはごちそうだった。そんな貧乏暮らしでも一流に触れ続けた。
「日本のエンターテインメント界の損失になる」と
無名時代のタモリを支えた赤塚不二夫
1975年、6月には九州からタモリを呼び寄せた。
1972年、ジャズピアニストの山下洋輔トリオが仕事で福岡・博多に行ったとき、ホテルの部屋で、テレビの音を消して時代劇を見ながら、デタラメ韓国語の即興劇で盛り上がっていた。それを、開いていたドアから見ていたタモリが乱入し、独自の即興劇を披露した。
トリオは圧倒され、爆笑となった。帰京した山下が、新宿のバー『ジャックの豆の木』でその話をしたところ、東京に呼ぼうということになった。
山下は3年間かかってタモリを探し出した。
上京したタモリは『ジャックの豆の木』で、さっそく芸を披露する。
すべてデタラメながら英語、ベトナム語、韓国語、中国語もどきを巧みに操った『4カ国語麻雀』や『ターザン』ネタなど、次々出される『お題』をすべて即興で、しかも爆笑を誘いながら完璧に演じるタモリに赤塚がほれ込んだ。
「泊まるとこあるの?」
「ない」
「じゃ、ウチ行こう」
赤塚は1973年に最初の妻・登茂子と離婚してから住んでいた目白のマンションにタモリを連れて行き、そのまま住まわせてしまった。家賃17万円を負担するばかりでなく、家具、食料、酒、服、車、挙げ句に小遣いまで、ほぼ1年間、衣食住すべてにわたって面倒を見た。
赤塚自身は、別にあった仕事場でロッカーを倒し、その上に布団を敷いて寝起きしていた。
「僕が一番金を持っていたし、九州に帰したら日本のエンターテインメント界の損失になると思った」とまでタモリを買っていた。赤塚は当時”独身”。少年週刊誌3誌で連載を抱え、『週刊文春』では『ギャグゲリラ』がロングラン中だった。アニメ『元祖天才バカボン』が放映され、テレビでレギュラー番組を持つなど、絶頂期が続いていた。タモリのテレビ初出演は、赤塚不二夫が司会を務める番組だった。タモリはその後、お昼のバラエティ番組『笑っていいとも!』の司会に抜擢され、以後大ブレイクを果たす。
赤塚は自伝『いま来たこの道帰りゃんせ』で、こんなことを書いている。
「居候文化、というものがあると思う。売れないやつが売れてるやつのところへ居候して、その間に学び、鍛え、充電する。そして、居候が世に出ることをもって、お返しと受け取る。(中略)経済的には大変に違いないが、人間同士の触れ合いによる、文化の継承形式の一つだと思う」
1年後、タモリは高円寺のマンションに移り、博多から夫人を呼び寄せ独立。「ボクの夢は見事に花開いたのである」と。
石ノ森章太郎の「奥さん」だった赤塚不二夫!?
赤塚より3つ年下の石ノ森章太郎は、いち早くデビューをし、トキワ荘でも、その才能は抜きん出て、人気の漫画家に育っていた。芽の出ない赤塚は仕事で忙しい石ノ森に代わって、ごはん炊きから食事の世話、洗濯をした。おかげで、3度の飯には困らなかったが、トキワ荘の仲間からは「石森氏の奥さん」などと呼ばれる”主夫”のときもあった。
なかなか安定した仕事にたどり着けないころ、石ノ森に少年漫画誌の編集者が泣きついた。予定したページが、作家の急病で掲載できない。「8ページ、読み切りのユーモア漫画を描いてくれる人はいないか?」とのリクエストに、石ノ森が、「その手の漫画だったら、赤塚に描かせてみたら」と勧めてくれた。
当初は読み切りの予定だったが、発売された少年漫画誌を見ると、「新連載爆笑漫画」とあった。「実は知らされてなくて、えっ? 連載! 飛び上がって喜んだよ」。赤塚にとって初めての少年漫画誌の連載だった。
藤子不二雄、松本零士、篠山紀信、横尾忠則、所ジョージ……
トキワ荘や新宿で切磋琢磨しあった一流の仲間たち
トキワ荘をはじめ、赤塚が共に時代を切り開いてきたアーティストは数知れない。
デビューする前、同じ漫画誌への投稿仲間だったカメラマンの篠山紀信。イラストレーターになる黒田征太郎、横尾忠則もいた。同人誌仲間には松本零士もいた。トキワ荘ではもちろん、藤子不二雄などとの交流も。
赤塚が最初の妻・登茂子と離婚をしてからは、仲間たちとの遊びが激しくなっていく。舞台は、新宿2丁目にあった『ひとみ寿司』だ。2階の6畳の部屋に、多いときには30人も入って遊んでいた。
名前を挙げれば、タモリ、所ジョージ、高見恭子、高平哲郎、山本晋也、アルフィーの坂崎幸之助、嵐山光三郎、篠原勝之……。テレビディレクター、プロデューサー、タレントの卵、売れない芸人、俳優、ポルノ女優、種々雑多な職業の男女が集まった。
寿司は禁止。焼酎のほうじ茶割り、氷水に入れたキャベツをムシって胡椒をかけて食べる、だけがツマミだった。
「それでも月200万円くらい払ってた。ひとみ寿司のおかげで、みんな育ったじゃない」と赤塚。新宿ゴールデン街にもよく顔を出した。
作家、映画・演劇関係者などジャンル別にひいきの店がわかれていた。
しかし赤塚は委細かまわず「楽しいところ」はどこへでも行った。
『ユニコーン』には大島渚、若松孝二ら映画関係者が集まった。
『ナジャ』には篠山紀信、大森実、藤本義一がいた。
『まえだ』は野坂昭如の行きつけの店だった。田中小実昌、唐十郎もいた。
『状況劇場』を主宰していた唐は2丁目の『紅テント』で公演していた。赤塚は「雨が漏って客が濡れちゃうからかわいそうだと思って、テント買ってやるって言ったの。200、300万円って言ってたのに、実際には600万円だった」と、唐との関係を話した。カンパも惜しまなかった。
「これでいいのだ!」とすべての存在を肯定しつづけた“天才”の成長物語
そんな自由奔放な赤塚は、『笑い』を通して仲間が集まり、つながり、存在を認めあい、成長しあった。
そこには赤塚の「人類愛」ともいえる、深い愛情があった。
強い、弱い、きれい、汚い…、どんな存在も「これでいいのだ!」と、命がけで肯定し続けた赤塚不二夫の生涯。不寛容の空気が漂う現代にあって、そんな赤塚不二夫の生き方は、私たちに大切なものを気づかせてくれるだろう。
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書名:赤塚不二夫伝 天才バカボンと三人の母
定価:1700円+税
判型:四六版/288ページ
発行:内外出版社